不思議の国の軟体鉱物

2017-08

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『Respective Tribute』 第5章「約束」 Part9

 前→「約束」 Part8

「知っているの、奈々子……」
「米大手証券会社のCEOにして、貴女たち大シンボルのリーダー。そうでしょ?」
 アリスは「違う」と小さく言いながら、首を振った。
「あんなの、リーダーなんかじゃないわ。自分の地位に自惚れて、偉そうにしてるだけ」
「つまり、それだけの地位があるってことでしょ。そして、それだけの力も」
 気まずそうな顔をして、アリスは奈々子から視線を逸らす。『女王』のことを話す奈々子の顔なんて、アリスは見たくなかったから。
「昨日の夜、貴女は彼女への襲撃計画に誘われた。そうよね?」
 アリスは静かに頷いた。
「……行くつもりなのね、『女王』を倒しに」
 無言で、再び頷く。
「もしさ……」
 奈々子が言葉を切った。ちらりと、アリスは視線を奈々子へ戻す。唇を噛み締め、辛そうな彼女の表情に、アリスは胸が締め付けられる思いがした。
「もし私が『行くな』って命令したら、貴女は行かないでくれるのかな……」
 あまりに弱気な声。だが、戦意に溢れていたアリスには分からなかった。
 どうして、奈々子はこんなに悲しそうなのかしら。
 理解が出来なくとも、アリスの決心は大きく揺らいでしまう。奈々子を無視して行ってしまえば良いのに、彼女にはそれが出来そうに無かった。
「……命令なら、無視するわ」
 無視など出来るはずが無いのに、意地を張るようにアリスは言ってしまう。
「だったら、命令じゃない。私からの、お願い」
 謝るように、悔いるように、懇願するように、奈々子は目を伏せて言う。
「行かないで」
 消え入るような声で――
「奈々子……」
 アリスは思い出す。以前奈々子と一緒に、ホンシアを確保する計画を立てた時のことを。あの時は久しぶりに誰かと戦えることに心を躍らせ、気付くことも出来なかった。
 辛そうな今の奈々子を見て、アリスはようやく気付けた。あの時、奈々子は自分のことを心配してくれていたのだ。過剰なくらい、過保護なくらい。そして今も、奈々子はそれ故に弱々しく俯いているのだ。アリスのことを、思う余り。
 だけど、それでも――
「……ごめんなさい、奈々子」
 突き放すように、アリスは言った。
 痛かった。泣きたかった。それを無理矢理、堪えた。
「私を待ってる人がいるの。兄妹みたいに大事な人も放っておけない。貴女がたとえ泣いたとしても、それでも私は行かなくちゃ駄目なの」
 奈々子は何の反応も見せない。何もかもに耐えているかのように。
「それに、『女王』を倒さないと……私はもう、昇れないと思うの」
 悪夢のようにアリスの心を悩ませる『女王』の残像。それを討ち果たさなければならない。『女王』が取るに足らない存在である事を、この眼で確かめなければならない。さもなければ、自分の限界を『女王』によって示され続けてしまうから。
 自分が戦いへ行くことに奈々子は耐えられるだろう。奈々子を悲しませることに自分は耐えられるだろう。しかし奈々子の安心のためだけに『女王』の打倒を諦める事は、アリスにとって到底耐え難いことであった。
 だから私は、行くしかないの……
 アリスは歩き出し、顔を見ないようにして奈々子の脇を通り過ぎる。
 ありがとう、その言葉を強く思いながら。
 玄関のドアの前で靴を履き、ドアを開けようとした時、背後から奈々子の声が聞こえた。
「分かっていた……きっと止められないって、私にだって分かってた」
 アリスは振り向きそうになってしまうのを必死に抑える。振り向いたとしても、ドアを開けるのには変わりない。ただ、辛くなるだけ。
「本当に信頼しているのなら、笑顔で見送れば良かったって、そんなの、簡単なことのはずなのに、どうしてもそれが出来なかった」
 嗚咽。
「……行きなさい、アリス。負けないで、戻って来て」
 奈々子のその一言に、アリスは深く頷いていた。奈々子から見えているかどうかなんて関係無い。奈々子の命令を約束として刻むための動作。
 約束は破れない。だから、負けない。
「行って来ます……」
 そう言ってアリスはドアを開け、外へと足を踏み出した。背後でドアが閉まり、奈々子の気配が感じられなくなった時、アリスは頬を濡らしてしまう。
 心配と信頼を同時にしてくれる人が傍にいる。それが嬉しかった。
 感謝の念が尽きることなく涙として流れ、アリスは戸惑ってしまう。悲しくないのに涙が止まらないこと、それは彼女にとって初めての経験だった。
 零れ落ちる涙を一所懸命拭いながら、アリスはゆっくりと屋上へと歩き出す。
 約束を、守るために。

 次→第6章「スカーレット・ドレス」 Part1

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