不思議の国の軟体鉱物

2017-11

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[ネタバレあり] 少女と理想の関係から考える『魔法少女まどかマギカ [新編] 叛逆の物語』

 現在公開中の『まどかマギカ』の劇場版、新編『叛逆の物語』によって、『まどかマギカ』は少女と理想を描いた傑作として完成したように思える。少女と理想について描いた作品は数多くあり、低年齢向けで無いアニメ作品では『少女革命ウテナ』と『シムーン』が『まどかマギカ』と比較しやすい作品として考えられる。しかしその2作品と比べても、『叛逆の物語』を含めた『まどかマギカ』という作品は独特なのではないか。

 少女と理想の形は作品によって違うが、『少女革命ウテナ』では「王子様」が少女の抱く理想として存在していると言える。主人公の少女はそれを目指し戦い、ヒロインを救済しようとするが、結局「王子様」に到達できたか定かでないまま物語の舞台から消える。しかし、ヒロインは自らを救済しようとした主人公の姿を見て、自分自身で前に進む意志を持つことになる。
 また『シムーン』では「翠玉のリ・マージョン」という儀式が理想として存在している。この物語では人間は全て少女として生まれ、いずれは男性か女性になることを選択しなければならないが、「翠玉のリ・マージョン」を行えた到達者は永遠の少女として存在することが出来る。しかし多くのメインキャラクターはその理想を目指すのではなく、それぞれの生き方を選び、男性や女性という大人へと成長して行く。
 これら2つの作品の共通点として少女が理想という到達点に囚われずに、己の自由意思で生きる選択を示していることが挙げられる。少女にとって理想とは目指すべきものには違いないが、少女が大人になるまでのモラトリアムである限り、理想から脱却する必要も存在するのだろう。

 では『まどかマギカ』における理想とは何か。恐らくそれは「魔法少女」であり、この理想は先に挙げた2作品と比べ大きな違いがある。『まどかマギカ』における「魔法少女」は全ての少女が到達可能な理想であると同時に、その理想はいずれ腐り堕ちる運命にあり、保ち続けることは難しい。『まどかマギカ』では理想とは到達することで完了するものでは無く、維持し続けることが重要なのであり、前述の2作品とは理想というものの捉え方が異なると推察できる。
 『ウテナ』においても「王子様」という理想を失なった存在が登場するが、『まどかマギカ』では全ての「魔法少女」が同様に理想を失い、呪いを振り撒く災厄へと変貌する運命にある。TVシリーズでは最終的に主人公であるまどかが全ての「魔法少女」からその運命を消失させ、理想を完全に失う前に少女たちを救済する神となったことで、「魔法少女」を完全な理想へと変化させることとなった。
 しかし少女の成長という観点では、この結末には疑問が残る。「魔法少女」になった少女が理想を失った後に新たな目標を見つけ、理想から脱却した成長を遂げることは出来ないのだろうか。たとえば実質的な主人公である暁美ほむらは「魔法少女」という理想がほぼ失われ、まどかを守りたいという一心で生き続けているが、その先に「魔法少女」を脱却した成長は存在しないのだろうか。
 その答えが、今回の『叛逆の物語』で描かれたと言える。

 『叛逆の物語』の主人公である暁美ほむらは、「魔法少女」という理想を失い、まどかを守るという夢も絶たれ、過去の記憶を支えに生き続けている。そんな彼女は『叛逆の物語』の中でまどかが神として存在することを否定し、まどかが普通の少女として生き続けることを願うこととなる。そしてそのために他のあらゆるもの、まどかや他の少女たちが抱く「魔法少女」という理想さえも踏み躙る決意をし、自らも「魔法少女」を超えた存在へと成長を遂げる。理想を捨て他者の想いを裏切ってでも己の欲求を叶えようとする、そんな強い感情を持つ暁美ほむらは果たして少女と呼べるのだろうか。「魔法少女」という理想の果てに、彼女は全てを捨ててでも望みを達そうとする人間性、すなわち「愛」を手に入れ、少女から女性へと成長してしまったのではないか。

 『ウテナ』が理想を追い求めることから脱却する物語であり、『シムーン』が理想に囚われず自由に生きようとする物語であるならば、『まどかマギカ』は『叛逆の物語』によって、理想に達した後にそれを超える物語として完成したと言える。到達した理想が朽ちようとも、新たな想いにより少女は成長を遂げることが出来る。たとえそれがどれほどずる賢く、邪な想いだとしても、それは少女の成長には違いないのだ。

 『叛逆の物語』によって完結した暁美ほむらの成長の物語は、少女と理想の関係に対する新たな観点を感じさせ、それは夢を失ってしまった全ての人間にも通ずるものがある。傑作と呼ぶに相応しい物語が、『叛逆の物語』によって完成したのではないだろうか。


 と、真面目かつ偉そうに書くのに疲れたのでここからはおちゃらけた考察を行います。考察の内容は、暁美ほむらことほむほむが最後にまどかと距離を置いているような描写があるのは何故なのか、です。
 結論から言います。レズのロリコンだからです。
 ほむほむの目標はまどかを守ることであり、それは円環の理という自己犠牲や魔女化だけでなく、たとえば友人を失うなどの精神的な危害からも守りたいと考えているように思えます。TV版でマミさんやさやかを助けようとしたのもこのためだったかも知れません。
 それでは、『叛逆の物語』後のまどかに迫る危機には何があるか。それは昨今の小中学生と同様の危機が考えられます。
 つまり変質者です。
 ほむほむは成長の末、自身の邪な考えや気持ち悪さを受け入れているように見え、開き直ったかのように自身を悪者として扱います。しかし悪意というのは大抵の人間にあるもので、ほむほむは単純に少女から大人になったと考えた方が良いような気がします。一方でまどかは少女のままで、ここに大人と少女という溝が存在すると思われます。
 大人が少女にいやらしい感情を向けたらどうなるか。少女の精神が傷つく可能性は高いでしょう。もしほむほむがまどかに積極的なアプローチを仕掛けたとしたら、ほむほむの内心にある異常な愛がまどかを恐怖に陥れるでしょう。それはまどかを守りたいというほむらの想いと矛盾します。
 故に、イエスロリータ・ノータッチの精神でまどかと距離を置いているのでしょう。それでもまどかを待ち続けるのはまどかに求められたい、まどかに許されたいという感情が全く払拭できていないからでしょう。レズのロリコンですね。ですが、まどかならいつか自分の所に来てくれるという希望も見えます。だから踊っているのでしょう。

 数々の苦難、壮絶な悲劇、重すぎる愛の末に目的を果たしたものの、結局孤独であり、その孤独を埋められるただ1人の少女を待ち続ける暁美ほむら。その心中は様々に想像でき、寂しさと共に人間的な魅力も感じさせます。彼女に対し再びまどかが微笑むのか、それともずっと1人で待ち続けるのか、対立の中でさやかとお互いを認め合って何故か求め合ってしまうのか。色々な想像を膨らませてしまう最後の暁美ほむらの姿は、愛おしくさえ見えます。

 でもやっぱりレズのロリコンなんじゃないでしょうか……


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